高松高等裁判所 平成2年(ネ)96号 判決 1993年3月25日
主文
一 控訴人の控訴を棄却する。
二 被控訴人の附帯控訴に基づき、
1 原判決中、被控訴人敗訴の部分を取り消す。
2 控訴人は、被控訴人に対し、別紙物件目録記載の土地につき、真正な登記名義の回復を原因とする所有権移転登記手続をせよ。
三 訴訟費用は、第一、二審とも控訴人の負担とする。
事実
一 控訴代理人は、「一 原判決中、控訴人敗訴の部分を取り消す。二 被控訴人の請求を棄却する。三 被控訴人は控訴人に対し、金五〇〇〇万円及びこれに対する昭和六一年三月二日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。四 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴人の附帯控訴に対し、附帯控訴棄却の判決を求めた。
被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求め、附帯控訴の趣旨として、主文第二項及び第三項と同旨の判決を求めた。
二 当事者双方の主張及び証拠の関係は、当審における主張を次のとおり付加し、当審における証拠の関係につき、当審記録中の書証目録及び証人等目録の記載を引用するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する(ただし、原判決書六丁裏七行目「県道」を「松山市道駅前・竹原線」に改め、七丁裏二行目「久松定武から」の下に「昭和五七年一〇月二五日売買により」を加え、同所五、六行目「買受けた」を「買受け、同日その旨所有権移転登記を了した」に、七丁裏四行目「昭和五八年」を「昭和六〇年」に改め、八丁表四行目「抗弁事実は総て否認する」を「抗弁事実のうち、本件土地につき昭和六〇年八月一四日被告名義に所有権移転登記がされたことは認めるが、その余の事実は否認する」に改める。)。
(控訴人の主張)
愛媛産興株式会社は(以下、「愛媛産興」という。)、昭和五七年一〇月二五日、所有者久松定武から本件土地を買受けたものであるが、当時、本件土地は、袋地であって四国名鉄運輸株式会社が駐車場として使用していただけで、道路としての形状や利用形態をなしておらず、道路法所定の供用開始の公示もされていなかった。そして、愛媛産興の実質的経営者であった西原清は、被控訴人発行の証明書(乙第二号証)により、本件土地が松山市の市道敷地を侵害していないとの証明を得たうえ、これを関連会社を経由して控訴人に譲渡したものである。
被控訴人は、本件土地の所有権を取得しておらず、かつ、本件土地が道路としての供用開始もされていないから、被控訴人が控訴人に対し、本件土地を道路敷地であると主張することは失当である。
(被控訴人の答弁及び主張)
1 控訴人の主張事実は否認する。
2 本件土地は、松山市三番町八丁目三六一番、三六三番合併一の土地の一部であったが、被控訴人が旧国鉄松山駅の貨物搬出、搬入用の道路として昭和三〇年三月一日所有者久松定武から代金三四万一二八〇円で買受け、同年四月三〇日右代金を支払った。そして、三六一番、三六三番合併六として分筆する予定だったところ、同年五月一三日手違いで三六一番、三六三番合併七として分筆登記され、しかも被控訴人名義への移転登記手続が未了のままとなった。
3 被控訴人は、買受けに係る本件土地につき、昭和三〇年度失業対策事業により盛土整地をし、以後松山市道として維持管理してきたもので、昭和四四年には本件土地の北側と南側に側溝新設工事を施工し、ほぼ現状の道路としての形態に整えた。そして、被控訴人は、遅くとも昭和三九年ころまでには、本件土地について路線の認定、道路区域の決定及び供用の開始等の法定の手続をとり(しかし関係書類は紛失した。)、本件土地が道路であることについての一般市民の認識も定着していた。このことは、久松定武が昭和三九年一一月一一日、本件土地に隣接する三六一番一の土地について、本件土地を市道「新玉二八六号線」と表示して道路境界査定申請をしていること(甲第五号証の一ないし四)、昭和四三年三月一五日本件土地に隣接する三六一番、三六三番合併八の土地について、出光興産株式会社の申請にかかる道路境界査定調書(甲第六号証の一)に、「本件土地は新玉二八六号線で台帳幅員は一四メートルであるが、実測は一四・八五メートルである。」旨記載されていることなどに照らしても明らかなところである。
なお、被控訴人は、昭和五四年一一月旧国鉄、出光興産、四国名鉄運輸の立会を得て境界を確定し、本件土地に「市道金属標」を設置した。
4 愛媛産興は本件土地を久松定武から買受けていない。
控訴人は、愛媛産興の実質的経営者である西原清が久松定武の代理人長岡悟から本件土地を買受けた旨主張するが、その契約書は提出されておらず、また、同人の代理権についてはなんら立証されていない。本件は西原と長岡悟が通謀して、久松家の土地を無断で売買したものであって、久松の意思に基づくものではない。
5 仮に、西原と久松との間で売買契約が締結されたとしても、本件土地の昭和五七年当時の地価は、六〇〇〇万円に近い金額であり、これを五〇〇万円で売買するというのは久松が松山藩主の末裔で世事にうといのに乗じてした暴利行為であって無効である。
6 仮に右の主張が認められないとしても、西原は、融資者を欺罔し無価値なもしくは存在しない土地を担保に提供して、一億円を越える融資を受ける目的で本件土地を購入したのであるが、これは詐欺の準備行為に該当するもので、明らかに動機において違法があり、かつ右動機は客観的に認識しうるものであるから、久松と西原との間の売買契約は公序良俗に反し無効である。
7 仮に、西原と久松との間の売買契約が有効であるとしても、西原は、本件土地は被控訴人が買受け市道としたものであることを認識したうえでその登記のないことに乗じこれを低廉な価格で購入し、その後これを廃道にしようと企図した背信的悪意者である。西原は、久松からの買受名義人愛媛興産の実質的経営者(契約締結の代理人)であるから、愛媛産興は背信的悪意者であって、本件土地の所有権取得をもって被控訴人に対抗することはできない。本件土地は、愛媛産興から有限会社清和不動産、愛媛ビジネスセンター有限会社に順次売買された形になっているが、右二者は共に西原の関係する会社であって、控訴人は実質的には西原から買受けたのと同じであるところ、控訴人もまた本件土地が既に市道となっていることを知りながら買受けたものである。
(被控訴人の主張に対する控訴人の答弁)
1 被控訴人の主張2は、被控訴人が本件土地を久松定武から買った事実を証明すべき証拠がなく、本件土地が本来合併六の土地であるべきことや、分筆手続を誤ったため被控訴人への登記がされなかったことなどはすべてその根拠を欠くものである。
2 同3のうち、被控訴人が本件土地を市道として管理してきたことは否認する。
3 同4ないし7は、いずれもこれを争う。
理由
第一 原審第一事件について
一 被控訴人の本件土地取得について
1 本件土地は、久松定武が所有していた松山市三番町八丁目(表示変更前の松山市幸町)三六一、三六三合併一の土地の一部であったことは、当事者間に争いがない。
2 成立に争いのない甲第五号証の四、第八号証の一、第一〇号証、第六〇号証、第七三、第七四号証の各一、二、第七五号証、その方式及び趣旨により真正な公文書と推定される甲第二号証の二、三、第六号証の一、二、第九号証(原本の存在も含む。)、原審証人黒田積の証言により真正に成立したと認められる甲第二号証の一、第三号証、第四号証の一ないし四、第五号証の一ないし三、第六号証の三、第一一号証の一、二、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第七二号証の一、及び、原審証人黒田積の証言、原審における検証の結果、並びに、弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。
(一) 被控訴人は、昭和三〇年ころ、旧国鉄松山駅前整備事業の一環として、旧国鉄側の要請により貨物の搬出、搬入のための道路を三番町の通りと同じ程度の幅員で造ることになり、当時の所有者であった久松定武(当時愛媛県知事)から、その敷地として本件土地を買受けることになった。そこで、被控訴人は、昭和三〇年一月二一日、本件土地の小作をしていた松浦音吉に対し、離作補償金五六万七〇〇〇円、麦作補償金四一五八円を支払い、久松定武からは同年三月一日代金三四万一二八〇円で道路敷地として買上げることの承諾書を徴し、同年四月三〇日右代金を完済した。
(二) そして、被控訴人と久松は、被控訴人の買受けた本件土地を久松所有の前記合併一の土地から分筆するにあたりこれを合併六、四畝六歩とすることにし、当該土地につき道路敷潰地調書が作られた。しかし、分筆登記手続で手違いが生じ、同年五月一三日、合併一の土地から分筆されたのは、合併七の土地であった。このため、登記簿や土地台帳のうえでは、合併七の土地ができたが、合併六の土地は公簿上作られなかったので、合併六として登記される予定の本件土地については、被控訴人名義に登記されないままになってしまった。
(三) 被控訴人は、本件土地を買受けた後その目的に従って公衆用道路を造成すべく、昭和三〇年度の失業対策事業で盛土整備し、昭和四四年六月二一日から同年七月一〇日までの間に本件土地の北側と南側に側溝を、ほぼ中央部に市章入りマンホールを二個所設置し、かつ、敷地全体をアスファルト舗装して現況に近い形態の道路に整備し、昭和五四年一一月には本件土地内に「市道金属標」を設置することにより本件土地が被控訴人の管理に係る道路であることを明確に公示した。このようにして本件土地は、遅くとも昭和四四年八月以降被控訴人所有の道路(市道)として一般市民の通行の用に供されてきた(ただし、道路法所定の路線の認定、区域の決定及び供用の開始並びにその公示がされたことを明確に証明する証拠はない)。
また、被控訴人は、道路台帳に、本件土地を三六〇番六の土地(出光興産ガソリンスタンド所在地)に北接する幅員一四・四メートルの広路部分の長さ三〇・四メートルと、三六一番一の土地(四国名鉄運輸営業所の敷地)に北接する幅員一・九メートルの狭路部分の長さ一八メートルのうちの広路部分として掲載し、同広路部分は東側で南北に走行する松山市道松山駅前竹原線と交差し(同交差点から東へは右広路部分とほぼ同じ幅員の松山市道三番町線が東に延びている。)、狭路部分は、その西端部分から南西方向に延びる幅員約二・八メートルの松山市道新玉一〇号線に接続する旨記載した。更に、被控訴人は昭和四三年三月一五日、地元総代栗山元孝の道路境界査定申請により本件土地とその南に接する合併八の土地の境界を地元民代表及び国鉄用地係等立会のうえ査定したが、その査定調書に、本件土地は新玉二八六の一号線で南北幅は一四・八五メートルである旨記載された。
(四) 前記合併一の土地は、元は田四反一八歩であったが、大正時代に同二ないし四(合計一反三畝三歩)が順次分筆されて鉄道省に譲渡され、昭和三〇年二月には、同五、として一反八畝九歩が分筆されて旧国鉄に売り渡たされ、その結果合併一の土地は九畝六歩となり、さらに同年五月、同七(四畝六歩)、及び昭和三九年同八(二畝一五歩)が順次分筆され、合併一の残地は二畝一五歩となったもので、本件土地の面積に相当する四畝六歩は、登記簿上も合併一の残地に含まれていない。(もっとも、合併七の土地登記簿(甲第一〇号証)では、地積は四〇六平方メートル(四畝三歩)となっているが、土地台帳(甲第六一号証)では四畝六歩(四一六平方メートル)となっており、この違いがどうして生じたかは分明でない。)
3 右認定の事実からすれば、本件土地は合併六と表示されるべき土地として久松定武から被控訴人が取得したものであるが、現実に合併一土地から分筆された土地が合併七と表示されたため、移転登記未了のままとなったものであって、合併七と表示された土地が被控訴人の買受けた土地に該当するものと認めることができる。
ただ、成立に争いのない乙第一一号証及び前掲証人黒田積の証言によれば、被控訴人は、昭和四八年から昭和五七年まで本件土地につき久松定武に対し固定資産税を賦課したことが認められるが、右証言によれば、これは昭和四七年に登記簿と市役所の固定資産課税台帳を照合した際、登記簿上合併七の土地が久松の所有として残っていたために、右土地が久松の所有であるとして誤って扱われたことによるものと認められるので、右事実は先の認定の妨げとなるものではない。
また、添付図面を除く部分については成立に争いがなく、同図面については前掲証人黒田積の証言によって成立の認められる乙第二号証によれば、松山市長は愛媛産興からの申請に対し、昭和五八年一月二七日付けで本件土地が道路境界線を侵害していないことを証明する文書を作成交付したことが認められるが、原審証人倉沢善男の証言によれば、当時の市の道路維持課長は、愛媛産興から本件土地が同社の名義になっている登記簿を見せられたため、調査をすることなく、底地は民有地のまま道路になっているものと軽信し、本件土地と東側の市道駅前・竹原線との境界、及び、南西側の建設省所有地との境界を確認したものであると認められるので、同号証の存在は先の認定を覆すものではない。
他に右認定を左右するに足る証拠はない。
二 次に、愛媛産興の本件土地取得の有無について検討する。
1 本件土地について、昭和五七年一〇月二七日受付けにより久松定武から愛媛産興に同月二五日売買を原因として所有権移転登記がされていることは、当事者間に争いがない。
2 成立に争いのない甲第一〇号証、第七一号証の一ないし七、その方式及び趣旨により真正な公文書と推定される乙第一八号証、当審における証人西原清(ただし、後記信用しない部分を除く。)、長岡悟(右同)、久松定成の各証言、及び、弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
長岡は同人の妻の妹が久松家に嫁いでいる関係にあって、長年久松家に出入りし同家の財産管理に関与していた者であるが、昭和五七年の夏、久松定武夫婦から、「五〇〇万円の金が急遽必要となった。久松家の土地で、登記簿上所有となっているため、固定資産税を課されているものの、所在の分からない土地があるが、この際処分したい。」との相談を受けたので、知り合いの西原にこの話を伝え協力を求めた。長岡は、同人が調べた限りでは本件土地は国鉄松山駅前付近にあるものと思ったが、なお明らかでなかったので、西原に対しその旨説明した。西原は、愛媛産興、有限会社清和不動産、及び、愛媛ビジネスセンター有限会社の実質上の経営者であったが、長岡から右の話を聞き、合併七の土地登記簿謄本、野取図等に基づいて本件土地の所在場所を調べたところ、それは四国名鉄運輸松山営業所が駐車場代わりに使用していた場所であることを知った。そこで西原は、愛媛産興の代理人として本件土地を買うことに決め、同年一〇月二五日、定武の代理人である長岡との間で、代金を定武側の希望する額である五〇〇万円として売買契約を締結した。ただ長岡は、売買契約を締結しても確実に西原の所有に帰せしめる確信がもてなかったので西原から「万一本件土地が存在しない場合にも久松から代金の返還を請求しない」との念書をとった。当時久松定武は病気勝ちで入退院を繰り返す状況であって、久松家の財政は専ら同人の妻が司っていたので、長岡は西原への売買については定武の妻のほか、同人の長男で愛媛大学農学部の教授であった定成に対しても右念書等を見せ同人らから承諾を得た。西原は、本件土地が登記簿上の地目が田となっていたので同年一〇月二〇日、松山市農業委員会から本件土地が昭和二六年三月三〇日以降運送業者の露天駐車場として使用されている旨の現況証明書の交付を受け、同月二二日、地目を雑種地に変更する登記をした上、同月二七日、愛媛産興名義に所有権移転登記をした。
以上の事実が認められ、前掲証人西原清、長岡悟の各証言のうち、右認定に反する部分は信用できない。
3 右認定事実によると、長岡は、西原と本件土地の売買契約を締結するにつき定武から代理権を与えられており、西原もまた愛媛産興から適法に代理権を与えられていたものと推認できるから、本件土地の売買契約は久松定武と愛媛産興との間でその効力を生ずべきものということができる。
被控訴人は、右契約は、久松定武の意思によらない長岡の無権代理行為であると主張するが、採用できない。
三 被控訴人は、右契約が成立したとしても、暴利行為に該当するかもしくは、公序良俗に反し無効であると主張するので検討する。
成立に争いのない甲第五二ないし第五七号証、弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる甲第五八号証によれば、昭和五七年当時の本件土地の地価はおよそ六〇〇〇万円であることが認められるので、愛媛産興の取得した際の代金五〇〇万円は客観的には格段に低い金額であるということができる。しかし、その売買契約を暴利行為であるとの理由で無効であるとするには、低額で売買がされたとの事実だけでは足りず、当事者の一方が相手方の窮状に付け込むなどの契約に至る過程や主観的な要素を加味して総合的に判断すべきところ、本件は、先に認定したように、久松家からその所在が明らかでない土地として売りに出されたものであり、代金額の五〇〇万円も久松側の希望で決められたこと、土地所有権を取得し得なかった場合でも代金の返還を要求しない旨を念書を差入れていること等の契約締結に関する事情を考慮すると本件売買契約は西原が久松の窮状に付け込んで暴利を得ようとしてしたものとはいえず、むしろ西原側において所有権を取得し得ない危険を負担して締結したものであるということができる。したがって、右売買契約を西原の暴利行為と認めることはできない。
また、前掲甲第一〇号証によると、西原は本件土地を買受けた後、本件土地に自己の関係する会社を債務者として多額の抵当権などを設定しているが、西原において抵当権者を騙して設定したことを認めるに足りる証拠はなく、まして、本件土地の売買契約の段階でこれを詐欺の準備行為であると認め得べき証拠もない。
よって、この点に関する被控訴人の主張も採用できない。
すなわち、久松定武と愛媛産興との売買契約は有効に成立したものということができる。
四 以上によると被控訴人と愛媛産興は、本件土地を前所有者定武から二重に買受けた者であるといえるところ、被控訴人は、国又は公共団体が道路敷地として土地所有権を取得する場合は、民法一七七条の適用はないと主張するが、そのように解される事由はなく、本件においても控訴人と愛媛産興間においては民法一七七条の対抗問題は生ずるものというべきである。
被控訴人の右主張は採用することができない。
五 そこで、定武から本件土地を買受けた愛媛産興が被控訴人に対する関係において背信的悪意者にあたるか否かについて判断をすすめる。
1 西原は、長岡から本件土地の買受け方を申し込まれた際現場に赴き本件土地の所在を確認したことは前示認定のとおりであるが、前掲証人西原は、当時本件土地は名鉄運輸が車の置場として使用しており、西南角には幅員二・四メートルの狭い道があるだけで北側は鎖りがしてあり人が入れないようになっていたので道路とは思えなかった旨供述する。確かに成立に争いのない乙第一六号証の一ないし一〇及び前示認定事実によれば、本件土地の西方部分は西南側において幅員二・八メートルの道路(松山市道新玉一〇号線)に通じているだけで一一・六メートル部分は行き止まりのようになっていることが認められるけれども、本件土地はその南北の幅が一四・四メートルで東西に長く長方形をなし、東方において松山市道松山駅前竹原線と交差し、同交差点東側には本件土地とほぼ同じ幅員(南北一四・四メートル)の同市道三番町線が東に延びていて本件土地の所在位置、形状自体においても道路としてふさわしくないとはみられない上に、前記一2(三)で認定したところによれば、被控訴人は昭和三〇年には本件土地に盛土をし、昭和四四年には本件土地の北側と南側に側溝を造り、中央部には二個所に市章入りのマンホール二個を設置し、全面をアスファルト舗装してほぼ現況と同じ道路の形態を整え、昭和五四年には「市道金属標」を設置して市道であることを公示し、近隣の者らも本件土地が市道であることを認識していたのであるから、西原において現地に臨んでその状況を見分し、付近の旧国鉄、出光興産等の従業員に尋ねた(この事実は証人西原の供述するところである。)のであれば、本件土地が被控訴人所有地であり、かつ道路となっていることに容易に気付いたはずであって、市有道路であることは知らなかったとの前掲証人西原の供述は措信できない。
2 そして原審証人黒田積の証言によって真正に成立したものと認める甲第二九ないし第三二号証及び右証言によると、愛媛産興は本件土地を買受けて間もない昭和五八年一月ころ、本件土地に関し市道の廃止を求めるため付近住民から同意書を徴していることが認められる。
3 以上の事実に鑑みると、西原が愛媛産興の代理人として久松定武から本件土地を買うにあたっては、本件土地が既に被控訴人に売り渡され、事実上市道となり、長年一般市民の通行の用に供されていたことを知ったが、被控訴人名義に所有権移転登記がされていないことを奇貨としてこれを買受け、道路を廃止して自己の利益を計ろうとしたものと認めることができるのであって、このような事情の下に本件土地を買受けた愛媛産興は、背信的悪意者であると評価されても致し方のないものということができる。したがって被控訴人は本件土地の所有権取得につきその登記なくして愛媛産興に対抗し得るものというべきである。
愛媛産興から本件土地の所有権を譲り受けた有限会社清和不動産ないしは、愛媛ビジネスセンター有限会社は、いずれも西原が実質的経営者である会社であり、成立に争いのない乙第一号証によると、控訴人は、昭和六〇年八月一四日、本件土地を愛媛ビジネスセンターから買受けたことが認められるが、愛媛産興が背信的悪意者であって所有権取得をもって被控訴人に対し対抗できない以上、清和不動産、ないし愛媛ビジネスセンターを経て買受けた控訴人もまた本件土地の所有権に関し被控訴人に対抗し得ないものというべきである。
六 そうであれば、被控訴人は本件土地の所有権に基づき、控訴人に対しその所有権移転登記の抹消を請求することができるから、これが抹消に代え、真正な登記名義の回復を原因とする被控訴人への所有権移転登記手続を求める被控訴人の請求は理由がある。
七 成立に争いのない甲第七号証、第二六号証及び弁論の全趣旨によると、被控訴人は愛媛県からの指示により、昭和五八年一月二五日、本件土地及びこれに接続して西方に延びる幅員一・九メートル、長さ一八メートルの部分を合わせて市道「新玉二八六―一号線」として道路法一八条に基づき区域決定及び供用開始の決定並びにこれが公示をしたことが認められ、これが後に「新玉四七号線」と改称され現在に至っていることは弁論の全趣旨によって認められるから、被控訴人の控訴人に対する本件土地が市道新玉四七号線の道路敷地であることの確認を求める請求は理由がある。
八 引用にかかる原判決請求原因8の事実のうち、控訴人が昭和六〇年八月二八日本件土地上にプレハブ造りの建物二棟及びバリケードを設置したことは、当事者間に争いがなく、控訴人にこれらの物件を本件土地上に設置する権限がないことは、これまでの説示から明らかであるから、控訴人に対し右物件の撤去を求める被控訴人の請求は理由がある。
第二 原審第二事件について
控訴人が被控訴人に対し、損害賠償請求を求める原審第二事件は控訴人が本件土地の所有権を被控訴人に対し主張できることを前提としたものであるところ、その前提が認められないことは、前示第一事件に関する判断において説示したとおりである。
よって、控訴人の請求はその余の主張について判断をするまでもなく、理由がない。
第三 まとめ
以上の理由により、控訴人の本件控訴は理由がないのでこれを棄却し、被控訴人の附帯控訴に基づき、原判決のうち、被控訴人の所有権移転登記手続請求を棄却した部分を取り消し、被控訴人の控訴人に対する本件土地の所有権移転登記手続請求を認容し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(物件目録は、第一審判決添付目録と同一につき省略)